2008年01月12日

篤姫(あつひめ)__04

家慶いえよし/斉木しげる)が死んだとき、家定いえさだ/堺 雅人)はすでに30代だった。家定いえさだ/堺 雅人)は幼年時疱瘡にかかったため、醜いあばたの容貌をしていた。そのうえ癇癪が強く、いつも首を振り、体を震わせる妙な癖を持っていた。

また、動作は暗愚そのものであったことが、水戸の徳川斉昭なりあき/江守 徹)から松平春嶽(しゅんがく)に送った書状や『安政紀事』に詳しく記されている。

家定いえさだ/堺 雅人)の正室は3人も変わった。生来の病弱と暗愚さから、性関係も淡白そのもので、当時、大奥付の女官だった佐々鎮子の記録によると、側室のお志賀の方鶴田真由)だけが、なんとか添い寝を買って出たとある。
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2008年01月10日

篤姫(あつひめ)_03

斉彬高橋英樹)はこの弱点をおぎなうために、篤姫宮崎あおい)を近衛(このえ)家の養女にした。近衛忠煕(ただひろ/春風亭小朝)の養女となった篤姫宮崎あおい)は「姫君」となり、名を敬子(すみこ/宮崎あおい)と称すようになる。

篤姫宮崎あおい)は安政3(1856)年、江戸渋谷の島津藩別邸でから、江戸城大奥入りを果たした。贅を凝らした21歳の花嫁篤姫宮崎あおい)と、33歳の十三代将軍家定堺 雅人)の婚姻は、1か月後に執り行われた。

徳川幕府は、相次ぐ外国船の来航と十二代将軍家慶(いえよし/斉木しげる)の死という二つの事件を契機に、国内は本格的な幕末への動乱と入っていく。
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2008年01月06日

篤姫(あつひめ)_02

ひかえめに受け答えをする於哲(吉高由里子)に対し、於一おかつ/宮崎あおい)は持ち前の勝気な気性をのぞかせ、ものおじせず応答した。ここで、於一おかつ/宮崎あおい)を薩摩藩主島津斉彬高橋英樹)の養女とする決定が下されだされ、名を篤姫宮崎あおい)と改めた。

しかし、将軍家に篤姫あつひめ/宮崎あおい)が入ることは、幕閣の中からも、大奥や有力大名の中からも異論が出た。徳川歴代将軍の正室の座は、三代将軍家光以来、京の名閥の娘が占めてきた。ただ例外として、十一代家斉(いえなり)には島津重豪(しげひで)の次女茂子姫が迎えられていたが、島津家からので再度の入輿(にゅうよ)は、警戒心をあらわにする向きも多かった。
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篤姫(あつひめ)_01

歴代の薩摩藩主には、強い個性と優秀な頭脳を持った殿様が多いが、中でも島津斉彬なりあき/高橋英樹)の存在は際立っていた。それだけではなく、斉彬なりあき/高橋英樹)は雄藩として、いかに幕府に影響力を与えることができかを熟慮し、政略としての十三代将軍家定いえさだ/堺 雅人)の正室に自らの娘を送り込もうと準備を始めた。

斉彬なりあき/高橋英樹)には3人の女児がいたが、みな年端がゆかない幼さだった。そこで、島津本家から分かれた一門四家の中の今泉家の家主、島津忠剛(ただとき/長塚京三)の娘、於一おかつ/宮崎あおい)と、重富家の島津忠教ただのり/山口祐一郎)の娘、於哲(おてつ/吉高由里子)という二人の娘を城中に召しだした。
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