2008年01月06日

篤姫(あつひめ)_01

歴代の薩摩藩主には、強い個性と優秀な頭脳を持った殿様が多いが、中でも島津斉彬なりあき/高橋英樹)の存在は際立っていた。それだけではなく、斉彬なりあき/高橋英樹)は雄藩として、いかに幕府に影響力を与えることができかを熟慮し、政略としての十三代将軍家定いえさだ/堺 雅人)の正室に自らの娘を送り込もうと準備を始めた。

斉彬なりあき/高橋英樹)には3人の女児がいたが、みな年端がゆかない幼さだった。そこで、島津本家から分かれた一門四家の中の今泉家の家主、島津忠剛(ただとき/長塚京三)の娘、於一おかつ/宮崎あおい)と、重富家の島津忠教ただのり/山口祐一郎)の娘、於哲(おてつ/吉高由里子)という二人の娘を城中に召しだした。
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篤姫(あつひめ)_02

ひかえめに受け答えをする於哲(吉高由里子)に対し、於一おかつ/宮崎あおい)は持ち前の勝気な気性をのぞかせ、ものおじせず応答した。ここで、於一おかつ/宮崎あおい)を薩摩藩主島津斉彬高橋英樹)の養女とする決定が下されだされ、名を篤姫宮崎あおい)と改めた。

しかし、将軍家に篤姫あつひめ/宮崎あおい)が入ることは、幕閣の中からも、大奥や有力大名の中からも異論が出た。徳川歴代将軍の正室の座は、三代将軍家光以来、京の名閥の娘が占めてきた。ただ例外として、十一代家斉(いえなり)には島津重豪(しげひで)の次女茂子姫が迎えられていたが、島津家からので再度の入輿(にゅうよ)は、警戒心をあらわにする向きも多かった。
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2008年01月10日

篤姫(あつひめ)_03

斉彬高橋英樹)はこの弱点をおぎなうために、篤姫宮崎あおい)を近衛(このえ)家の養女にした。近衛忠煕(ただひろ/春風亭小朝)の養女となった篤姫宮崎あおい)は「姫君」となり、名を敬子(すみこ/宮崎あおい)と称すようになる。

篤姫宮崎あおい)は安政3(1856)年、江戸渋谷の島津藩別邸でから、江戸城大奥入りを果たした。贅を凝らした21歳の花嫁篤姫宮崎あおい)と、33歳の十三代将軍家定堺 雅人)の婚姻は、1か月後に執り行われた。

徳川幕府は、相次ぐ外国船の来航と十二代将軍家慶(いえよし/斉木しげる)の死という二つの事件を契機に、国内は本格的な幕末への動乱と入っていく。
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2008年01月12日

篤姫(あつひめ)__04

家慶いえよし/斉木しげる)が死んだとき、家定いえさだ/堺 雅人)はすでに30代だった。家定いえさだ/堺 雅人)は幼年時疱瘡にかかったため、醜いあばたの容貌をしていた。そのうえ癇癪が強く、いつも首を振り、体を震わせる妙な癖を持っていた。

また、動作は暗愚そのものであったことが、水戸の徳川斉昭なりあき/江守 徹)から松平春嶽(しゅんがく)に送った書状や『安政紀事』に詳しく記されている。

家定いえさだ/堺 雅人)の正室は3人も変わった。生来の病弱と暗愚さから、性関係も淡白そのもので、当時、大奥付の女官だった佐々鎮子の記録によると、側室のお志賀の方鶴田真由)だけが、なんとか添い寝を買って出たとある。
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篤姫(あつひめ)__05

正室の奥泊りも年に1、2度に過ぎなかったという。このため家定いえさだ/堺 雅人)についてはついにひとりの子もなく、将来ともその望みは持てなかった。加えての虚弱さのため、激動する幕末の非常時に対処する最高責任者としてふさわしくなかった。このため早くからその後継者が問題になっていた。将軍の後継者問題となれば、まず御三家、御三卿が考えられる。

御三家からは紀伊藩徳川慶福よしとみ/松田翔太)、尾張藩徳川慶勝(よしかつ)、水戸藩慶篤(よしあつ)であり、御三卿からは清水家には当時男子しがなく、田安家の田安慶頼(よしより)、一橋家の一橋慶喜よしのぶ/平 岳大)の5人が将軍職の候補だった。
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篤姫(あつひめ)__06

この中からまず血統、年齢、そして人物、最後に力量が厳密に比較検討された結果、紀伊藩の慶福よしとみ/松田翔太)と一橋家の慶喜よしのぶ/平 岳大)の二人にしぼられた。

このため慶福よしとみ/松田翔太)を擁立しようとする「南紀派」と、慶喜よしのぶ/平 岳大)を推挙する「一橋派」が対立し、さらに江戸城大奥が絡んで、激しい抗争が繰り広げられた。
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篤姫(あつひめ)__07

これは「血統か聡明さか」の争いといわれ、あくまでも血統を重んじる将軍側近や幕臣などは、大老井伊直弼いいなおすけ/中村梅雀)の下に結束し、当時12歳の徳川慶福よしとみ/松田翔太)を推した。

また、内外の重大難局に際しては血統よりも「聡明さ」とする側は、水戸藩主徳川斉昭なりあき/江守 徹)を筆頭に、鹿児島の島津斉彬なりあき/高橋英樹)、土佐の山内容堂(ようどう)、仙台の伊達宗城(むねなり/森田順平)ら全国の有力藩主を中心に、当時20歳の一橋慶喜よしのぶ/平 岳大)を推した。
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2008年01月13日

篤姫(あつひめ)__08

さて、大奥での篤姫あつひめ/宮崎あおい)を、陰になり日向になりながら助けてきた女たちの存在もあった。まず、近衛家からお付女中として大奥につき従った、老女の幾島松阪慶子)がいる。幾島松阪慶子)は斉彬なりあき/高橋英樹)の叔母郁姫の侍女として仕え、近衛忠煕(ただひろ/春風亭小朝)婦人となった郁姫と京に同行した。

郁姫が若くして亡くなったあとも近衛に留まっていた。この幾島松阪慶子)の豊かな才智と経験と人柄を見込んだ斉彬は、篤姫あつひめ/宮崎あおい)の教育係りに抜擢した。そのうえ、幾島松阪慶子)には江戸城大奥での密偵役も課して、西郷隆盛(小澤征悦)と連帯させるのだ。その間の連絡役は、藩邸の奥の取締役での老女小の島(おのしま/佐藤藍子)がつとめた。
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2008年01月19日

篤姫(あつひめ)__09

つまり斉彬なりあき/高橋英樹)は密偵西郷(小澤征悦)を使い、こちら側の意を伝えると同時に、幾島松阪慶子)からの情報で幕閣や大奥の動向を知ることができた。そのほかにも、藤野、園川などの老女を相談役として抱え込んだ。

一方、篤姫も、家定の生母本寿院(高畑淳子)とその側近の上臈歌橋の局を寵絡して、虚弱な将軍を動かした。
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篤姫(あつひめ)__10

しかし、篤姫あつひめ/宮崎あおい)が嫁いで2年足らずの安政5(1858)年、35歳の若さで家定いえさだ/堺 雅人)が病死。篤姫あつひめ/宮崎あおい)が未亡人になるのと、大きな支えの斉彬なりあき/高橋英樹)を喪ったのは、同じ年のことだった。

篤姫あつひめ/宮崎あおい)は政略結婚の目的も果たせないまま、続けざまに、家定いえさだ/堺 雅人)、斉彬なりあき/高橋英樹)に急死されひとり大奥に取り残された。

篤姫あつひめ/宮崎あおい)は途方に暮れ、無念の思いに駆られた。やがて、篤姫あつひめ/宮崎あおい)は落飾して天璋院てんしょういん/宮崎あおい)となり、十四代将軍家茂(いえもち/松田翔太)の養母という確固とした地位を得る。そして、大奥を仕切っていった。
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