2008年01月23日

和宮(かずのみや)_04

天皇の仲立ちで和宮(堀北真希)皇女と熾仁(たるひと)親王との間に婚約が取り決められたとき、和宮(堀北真希)は6歳、親王は17歳だった。早婚の当時としてはそろそろ配偶者を迎えてもおかしく親王だったが、6歳の婚約者はいかにも幼く、あるいは有難迷惑だったかもしれない。

しかし和宮(堀北真希)としてはこれで一生埋れ木で過ごす恐れがなったことになる。当の和宮(堀北真希)は、まだ幼くて何とも思わなかっただろうが、母の観行院(かんぎょういん/若村麻由美)は喜び安堵したことだろう。

5歳の和宮(堀北真希)は、親王の父有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひと)親王から習字の手ほどきを受けた。6歳になると、親王から直に和歌や漢詩を学び始めた。和宮(堀北真希)の終生の心の支えだった和歌は、婚約者が初めて伝授されたものだった

内では、母観行院(かんぎょういん/若村麻由美)や祖父実久(さねひさ)らの慈しみを受け、外では、兄の天皇からの厚い庇護を得て、和宮(堀北真希)は父のない寂しさも忘れて幸せだった。やがて執り行われる親王との婚礼を胸に描きながら、少女らしい日々を過ごしていた。
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和宮(かずのみや)_03

和宮(堀北真希)にはひとりの姉と、ひとりの兄が残っていた。だが、姉敏宮(ときのみや)は生母が異なり、27歳も年上ということもあり、親しみにくかった。兄の統仁(おさひと/東儀秀樹)宮は父の跡を継いで即位した後の孝明天皇(東儀秀樹)だが、やはり腹違いであり、15歳も年長だった。

しかし、幸い兄の孝明天皇(東儀秀樹)は、たったひとり残った和宮(堀北真希)に心を配った。そのひとつが、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王との婚約だった。

当時、歴史上の天皇にはそれぞれ多くの皇子皇女が生まれたが、皇位を継ぐ皇子は別として、その他の皇子の場合、世襲皇族の養子に入るのは幸運で、多くは断髪出家して法親王(ほっしんのう)になった。

皇女方も伏見、桂、閑院、有栖川(ありすがわ)の四宮家か、近衛(このえ)、鷹司(たかつかさ)、九条、二条、一条の五摂家へ降嫁(こうか)した。それらの九家に似合いの相手がいない場合は尼寺に入って生涯を終えるのが普通とされ、それ以外のやり方は許されなかった。
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2008年01月22日

和宮(かずのみや)_02

古代からの宮中のしきたりとして、皇女は懐妊すると実家へ戻って出産する。産の血の穢れを忌み嫌ったためだ。典侍(ないしのすけ)橋本経子(つねこ/若村麻由美)も父の権大納言橋本実久(さねひさ)邸で出産した。

その後、和宮(堀北真希)は有栖川宮(ありすがわのみや)との婚礼準備のため、桂川の桂宮(かつらのみや)に移ることになる。15歳までこの桂宮(かつらのみや)で祖父実久(さねひさ)に、祖父の死後は伯父実麗(さねあきら)に養育された。

皇妃に生まれた皇子や皇女は、誕生後、数カ月、遅くても5、6歳になると、生母に連れられで参内し、天皇に対面する習慣がある。しかし、東宮(とうぐう/皇太子)以外は宮中で育てられる例は少なく、多くは生母の実家で養育されるので、和宮(堀北真希)の場合が特別ではない。しかし、誕生前に父を失ったことは、その後の和宮(堀北真希)に不幸な悲劇の影を落とすことになる。
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和宮(かずのみや)_01

和宮(堀北真希)は弘化3 (1846)年、仁孝(にんこう)天皇の皇女として生まれた。母は天皇の妃の一人、典侍(ないしのすけ/すけ/てんじ)橋本経子(つねこ/若村麻由美)で、のち仏間に入って観行院(かんぎょういん/若村麻由美)となる。

仁孝(にんこう)天皇には多くの皇妃がいて、その間に7男8女を儲けていたが、多くが早逝して、成人したのは敏宮淑子(ときのみや すみこ)内親王。と第四皇子統仁(おさひと/東儀秀樹)、それに末子の和宮(堀北真希)の3人だけだった。

和宮(堀北真希)は「皇女和宮」といわれるが、正式には「第八和宮親子(ちかこ)内親王」または「和宮親子内親王」という。仁孝(にんこう)天皇自身も、和宮(堀北真希)の誕生見ることなく、同年に病死している。和宮(堀北真希)は父の死後、この世に生を受けた。
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2008年01月19日

篤姫(あつひめ)__10

しかし、篤姫あつひめ/宮崎あおい)が嫁いで2年足らずの安政5(1858)年、35歳の若さで家定いえさだ/堺 雅人)が病死。篤姫あつひめ/宮崎あおい)が未亡人になるのと、大きな支えの斉彬なりあき/高橋英樹)を喪ったのは、同じ年のことだった。

篤姫あつひめ/宮崎あおい)は政略結婚の目的も果たせないまま、続けざまに、家定いえさだ/堺 雅人)、斉彬なりあき/高橋英樹)に急死されひとり大奥に取り残された。

篤姫あつひめ/宮崎あおい)は途方に暮れ、無念の思いに駆られた。やがて、篤姫あつひめ/宮崎あおい)は落飾して天璋院てんしょういん/宮崎あおい)となり、十四代将軍家茂(いえもち/松田翔太)の養母という確固とした地位を得る。そして、大奥を仕切っていった。
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篤姫(あつひめ)__09

つまり斉彬なりあき/高橋英樹)は密偵西郷(小澤征悦)を使い、こちら側の意を伝えると同時に、幾島松阪慶子)からの情報で幕閣や大奥の動向を知ることができた。そのほかにも、藤野、園川などの老女を相談役として抱え込んだ。

一方、篤姫も、家定の生母本寿院(高畑淳子)とその側近の上臈歌橋の局を寵絡して、虚弱な将軍を動かした。
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2008年01月13日

篤姫(あつひめ)__08

さて、大奥での篤姫あつひめ/宮崎あおい)を、陰になり日向になりながら助けてきた女たちの存在もあった。まず、近衛家からお付女中として大奥につき従った、老女の幾島松阪慶子)がいる。幾島松阪慶子)は斉彬なりあき/高橋英樹)の叔母郁姫の侍女として仕え、近衛忠煕(ただひろ/春風亭小朝)婦人となった郁姫と京に同行した。

郁姫が若くして亡くなったあとも近衛に留まっていた。この幾島松阪慶子)の豊かな才智と経験と人柄を見込んだ斉彬は、篤姫あつひめ/宮崎あおい)の教育係りに抜擢した。そのうえ、幾島松阪慶子)には江戸城大奥での密偵役も課して、西郷隆盛(小澤征悦)と連帯させるのだ。その間の連絡役は、藩邸の奥の取締役での老女小の島(おのしま/佐藤藍子)がつとめた。
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2008年01月12日

篤姫(あつひめ)__07

これは「血統か聡明さか」の争いといわれ、あくまでも血統を重んじる将軍側近や幕臣などは、大老井伊直弼いいなおすけ/中村梅雀)の下に結束し、当時12歳の徳川慶福よしとみ/松田翔太)を推した。

また、内外の重大難局に際しては血統よりも「聡明さ」とする側は、水戸藩主徳川斉昭なりあき/江守 徹)を筆頭に、鹿児島の島津斉彬なりあき/高橋英樹)、土佐の山内容堂(ようどう)、仙台の伊達宗城(むねなり/森田順平)ら全国の有力藩主を中心に、当時20歳の一橋慶喜よしのぶ/平 岳大)を推した。
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篤姫(あつひめ)__06

この中からまず血統、年齢、そして人物、最後に力量が厳密に比較検討された結果、紀伊藩の慶福よしとみ/松田翔太)と一橋家の慶喜よしのぶ/平 岳大)の二人にしぼられた。

このため慶福よしとみ/松田翔太)を擁立しようとする「南紀派」と、慶喜よしのぶ/平 岳大)を推挙する「一橋派」が対立し、さらに江戸城大奥が絡んで、激しい抗争が繰り広げられた。
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篤姫(あつひめ)__05

正室の奥泊りも年に1、2度に過ぎなかったという。このため家定いえさだ/堺 雅人)についてはついにひとりの子もなく、将来ともその望みは持てなかった。加えての虚弱さのため、激動する幕末の非常時に対処する最高責任者としてふさわしくなかった。このため早くからその後継者が問題になっていた。将軍の後継者問題となれば、まず御三家、御三卿が考えられる。

御三家からは紀伊藩徳川慶福よしとみ/松田翔太)、尾張藩徳川慶勝(よしかつ)、水戸藩慶篤(よしあつ)であり、御三卿からは清水家には当時男子しがなく、田安家の田安慶頼(よしより)、一橋家の一橋慶喜よしのぶ/平 岳大)の5人が将軍職の候補だった。
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